本書の舞台は、20世紀初めのビルマの首都ラングーンである。19世紀後半に英領インドの一部としてイギリスに植民地化されたビルマ州には、当時、インド亜大陸から大量の労働者が流入していた。自由な国内移動を妨げるものはなかったのだ。しかし、まもなく移民問題が深刻化する。統治者は経済的発展のために安価な労働力を確保したいが、都市の治安や衛生環境の悪化も避けなければならない。二つの思惑の間で、いつしかビルマ州は英領インドに属しつつも単独の国家のように振る舞いはじめる。本書は、数多くの未公刊文書や政府公刊物の丁寧な分析に基づいて、そのプロセスと特質を明らかにした力作である。
序章は植民地官僚による回想録の引用からはじまる。暴徒化したビルマ人が刀をもって道路を闊歩しインド人労働者を追い詰めていく様子と彼自身の無力さが生々しく伝えられている。1930年5月、英国植民地ビルマの首都ラングーンで発生した暴動の一場面である。暴動の犠牲者約200名の多くはインド人労働者であった。多様な人びとが混在しながらも平和に暮らしているようにみえたラングーンで、ビルマとインドの強烈な人種間対立が突如として顕在化したのである。また、混乱のなかで後の独立運動を主導していく政治団体が生まれた。ビルマ人ナショナリストによって結成された「我らビルマ人協会」(通称タキン党)だ。この点において、本事件はビルマ近代史における大きな転換点であったとされる。では、暴動は如何にして起こったのか? 暴動の背景をなす社会的構造を都市ラングーンに焦点をあてて解き明かすことが、本書の目的のひとつである。そして、この目的を追ううちに、物理的に改変されていく都市空間のなかで、植民地権力の思惑や苦悩、人びとの欲望や感情が相互に絡み合って生み出された、ある種の境界が見出される。その境界とは、ビルマ人とインド人を分かち、一行政区にすぎないビルマ州の領域を英領インドから分かつ、分離独立に向けて動き出そうとするビルマに胎動した「国境」といえるものであった。本書の目指すところは、この境界が生み出される過程とその性質の解明にある。
当時、ラングーンは「インド人の町」であった。19世紀後半のイギリスによるデルタ開発が米産業の繁栄をもたらし、それを支える単純労働者がインド亜大陸に求められたのだ。結果、少数のヨーロッパ人を頂点におき、多様な中間層と、インド人とビルマ人の分厚い下層住民からなる複合社会が形成された。ビルマ人の多くが都市周辺部の悪条件地に居住したのに対し、街の核心部の集合住宅は人口の過半数をなすインド人労働者によって占められた。第1章では、このような住民構成の詳細や街区毎の個性がセンサスデータや地図情報を駆使して明らかにされる。
移民労働者によるラングーンの人口増加は想定を大きく上回るものであり、ビルマ州政庁は都市を管理する上でのいくつもの課題を抱えることとなった。本論部分では、移民と深く関わる3つのテーマ(治安維持、公衆衛生、都市開発)について分析がなされる。
第2章と第3章で取り上げられるのは都市の治安維持、具体的には外来犯罪者の追放政策である。20世紀初頭のラングーンでもっとも犯罪が多かった地区は華人街であった。華人の人口割合はそれほど大きくはなかったが、秘密結社同士の抗争や違法賭博、麻薬売買を看過できないビルマ州政庁は華人犯罪者の国外追放の実現へ向けて動き出した。第2章では、外来犯罪者追放の端緒となった華人統治政策の変遷と運用の実態が明らかにされる。1909年、外来の犯罪者(華人)が英領インドからはじめて追放された。華人追放の法的根拠は既存の「外国人法」に求められた。ビルマ州政庁が外国人を英領インドから追放できる権限を定める本法が、華人に対して適用可能であったのだ。また、本章では海峡植民地との制度比較から、運用の面で華人有力者たちに委ねる間接統治がなされた点に差異を見出している。
ビルマ州政庁は華人犯罪者の追放を実現したものの、ラングーンの治安維持の肝は圧倒的多数を占める下層民、つまりインド人への対応であった。インド人犯罪者追放政策をめぐる動きを人と人とを区分する境界が生み出される過程として論じた第3章は、本書のなかで重要なパートをなす。1910年代の急速な人口増加と経済的な繁栄はさらなる治安悪化を招き、人員不足に悩む市警は機能不全に陥っていた。そこでビルマ州政庁はインド人犯罪者への追放政策拡張を目指すが、英領インドの一地方行政体であるビルマ州では、イギリス臣民であるインド人に対して華人と同じように「外国人法」を適用することはできない。しかし、ビルマ州政庁は売春婦や物乞いの追放制度の策定を経て、1926年、ついにイギリス臣民にまで対象範囲を拡大した「犯罪者追放法」を制定する。本法が適用されるのは「非ビルマ人」という新しい概念に属する人びとであり、両親の「土着人種」の是非や本人の長期居住の事実をふまえて判断がなされた。つまり、同じ英領インドに住むイギリス臣民の間で、ビルマ州に帰属する「ビルマ人」とそうでない者(インド人)との区分を可能にしたのだ。ビルマ州の国家のような振る舞いと「国境」の確かな胎動がここにはじまったのである。
空間的な境界も同時期に現れた。公衆衛生政策を扱う第4章は、ラングーン港が「国境」的な性格を帯びていく過程を明らかにしている。都市の人口が過密していくなかで、伝染病の拡散を警戒する行政は強制種痘の制度化を検討しはじめた。ビルマ州政庁はラングーン中心部にあるインド人居住区の過密状態を問題視し、彼らを伝染病の発生源とする認識を徐々に深めていく。そこではインド人を不衛生とする差別的な人種観が大いに作用していた。ついに1920年代末、インド人移住者を主なターゲットとした海港での強制種痘が法制化され、ラングーン港を境に内と外とが明確化した。また、政策を正当化するためにビルマ州政庁が繰り返した人種差別的な言説は、ビルマ人とインド人との差異を強調し、結果として両者の反目を強めることとなった。
第5章では、都市開発事業の進展を通じて植民地権力とインド人の両者に対するビルマ人の反感が複合的に高まっていく様子が、1930年暴動の背景として綿密に描かれる。財政難に苦しむ州政庁は、急増する人口に対して十分な宅地を供給できずにいた。状況を打開すべく設置された都市計画機関「ラングーン開発トラスト」は、宅地造成やインフラ整備を強力に進めた。当初、ビルマ人住民の開発事業に対する期待は高かったが、やがて開発トラストやインド人地主への強い不満へと変化する。結果的に都市開発が(中心部のインド人労働者でなく)周辺部に居住していたビルマ人の下層民をさらに周縁の悪条件地へ押しやったからだ。本章では、ビルマ語新聞の社説も巧みに用いられ、1930年暴動前夜のラングーンにおけるビルマ人住民の不満の高まりとその矛先がインド人労働者に向けられていく様が明らかにされる。終章では各章のポイントが整理され、様々な角度からの総合的な考察がなされる。
本書の知見から導かれる重要な含意のいくつかは、現代のビルマが抱える難題に正面から向き合うものである。本書は、ビルマ・ナショナリズムの排他的側面、つまり反インド的な要素が埋め込まれ増幅される過程の詳細を解き明かし、そこに植民地権力の具体的な政策実践との相互作用を見出すことに成功した。また、インド人犯罪者追放政策(第3章)にその系譜をみた「土着人種」概念は、国家の成員資格として、かたちを変えながら現在にも生き続けている。本書を読み進めるとき、現代との繋がり──ビルマ人の日常的な言動から感じられる南アジア系やムスリムの住民に対する微妙なニュアンスや、ときに見せるあからさまな拒否反応、あるいは国際社会からも注目されているロヒンギャの問題(本書内でも終章で触れられる)―─がしばしば想起させられるのは、およそ一世紀前のラングーンに胚胎された境界が今も存在している証である。根本(2014)は、この国が望ましい将来像を構築していくためには、ビルマ・ナショナリズムに内包される強い排他性をどれだけ自覚的にコントロールできるかが鍵だという。本書により与えられる「ビルマ・ナショナリズムを相対化する視座」は、まさにその一助となるだろう。本書のメッセージはビルマの将来を担っていく人びとにこそ向けられているのだ。(ちなみに著者の国際的な成果発信は多くある。Osada(2011)など。)
本書の価値を現代ビルマの文脈や今日的課題にひきつけて論じるだけでは、著者が企図した長大な射程を伝えきれない。ラングーンあるいは対インド関係を越えたビルマ州全体の領域性についての考察や、ビルマを東南アジアの周縁部あるいはアジアの「フロンティア空間」と位置づけてその固有性を探る試みに、それが表れている。評者には今ひとつわからないところもあったが、気迫は伝わってきた。また、都市の個性と空間構造の細部への徹底した学術的追求は、都市ラングーンを本書の主役へと押し上げており、新しい都市歴史研究の可能性を示しているように思う。今後の研究展開に期待が膨らむ。
ところで、本書の美点のひとつに全編を通じた高い一貫性があげられよう。膨大で多様なデータを扱いながらも、無駄のない記述と練り上げられた構成により、結論まで一筋に導いてくれるのが気持ちいい。しかし、そうすると逆に、研究が進行する過程でそぎ落とさざるを得なかったエピソードが気になってくる。本書ではナショナリズムの負の側面が際立っているだけに、論旨から逸れたサイドストーリーの存在をなおさら期待してしまうのだろうか。ただ、それは本書で追いかけた「植民地行政の日常的実践」にではなく、ラングーンに生きた人びとの日常の暮らしのなかに潜むものかもしれない。ともあれ、このような文字通りの無いものねだりぐらいしか注文は見当たらない。受賞にふさわしい傑作である。
■参考文献
根本敬(2014)『物語 ビルマの歴史―─王朝時代から現代まで』中公新書2249、中央公論新社。
Osada, Noriyuki (2011) An Embryonic Border: Racial Discourses and Compulsory Vaccination for Indian Immigrants at Ports in Colonial Burma, 1870-1937. Moussons: Recherche en sciences humaines sur l’Asie du Sud-Est 17: 145-165.
■評者紹介
①氏名(ふりがな)……松田正彦(まつだ・まさひこ)
②所属・職名……立命館大学国際関係学部・教授
③生年と出身地……1972年、広島県
④専門分野・地域……熱帯農業生態学、地域研究、ミャンマー、東南アジア
⑤学歴……京都大学大学院農学研究科(地域環境科学専攻)、博士(農学)
⑥職歴……国立民族学博物館地域研究企画交流センター・COE研究員(28歳、1年間)、国際協力機構(JICA)・派遣調査団員(29歳、約1年間)、JICA・長期専門家(31歳、2年間)、立命館大学国際関係学部・准教授(33歳、現在に至る)。
⑦現地滞在経験……ミャンマー(JICA長期専門家などとして29歳から延べ約3年間、農業灌漑省農業計画局の客員研究員として38歳から約1年間)。
⑧研究手法……生業活動や農業体系に関する聞き取り調査など、農村でのフィールドワークが主。
⑨所属学会……日本熱帯農業学会、日本熱帯生態学会、東南アジア学会。
⑩研究上の画期……インターネットとスマートフォンの浸透。数年前からミャンマーの農村にもスマホが急速に普及している。はじめてスマホを買った村人が私のインタビュー風景をおもしろがって動画撮影しSNSへアップした。知らない人たちにイジられて、なぜか心地よさを感じた。ともすると一方的になる彼らとの関係性をあらためて自覚させられた。
⑪推薦図書……高谷好一 (1985) 『東南アジアの自然と土地利用』勁草書房。