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地域研究

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地域研究 JCAS Review Vol.19 No.1 2019  P. 36-41  公開日:2019年3月29日
登竜賞 書評

高橋沙奈美 著

『ソヴィエト・ロシアの聖なる景観

 ──社会主義体制下の宗教文化財、ツーリズム、ナショナリズム
(北海道大学出版会、2018年) 

評者 伊東 一郎

ITO Ichiro

『ソヴィエト・ロシアの聖なる空間』書影.jpg

 本書はスターリン批判以降のソヴィエト、著者の言う「後期社会主義時代」に、主に建築を中心とした宗教文化財の保護が、その時代の社会主義体制とどのように折り合いをつけてなされていったかを丹念にあとづけた労作である。宗教政策と宗教そのものの変容が、この時代の「公衆」の内面にどのような変容をもたらしたか、それが紆余曲折を辿る保護運動とどのような有機的連関を持ったかを、本書はアルヒーフ資料の渉猟とフィールドワークの成果を交えて鮮やかに描き出している。

 本書は次の七章から成る。序章にあたる「はじめに」、第一章「ソヴィエト・ロシアにおける宗教政策の展開と宗教の社会的変容」、第二章「ソヴィエト・ロシアにおける宗教・社会主義・世俗化」、第三章「宗教をめぐる学知の確立」、第四章「史跡・文化財保護運動の展開」、第五章「科学的無神論の展開と『信者』の相貌――ウラジーミル州でのフィールドワークを中心に」、第六章「ふたりのアンドレイ――ルブリョフとタルコフスキー」、第七章「記憶への旅――社会主義の経験と景観表象の変容」、終章としての「おわりに」。以下各章について本書の論点を批判的に検証していく。

 第一章「ソヴィエト・ロシアにおける宗教政策の展開と宗教の社会的変容」では、本書の論述の前提として、建前上は宗教の存在意義を否定していた革命後のロシアにおいて宗教がどのように生き延びてきたかが検討されている。そこでの論点の中心は特に大祖国戦争以降のロシア・ナショナリズムの勃興と正教文化の結びつきである。

 第二章「ソヴィエト・ロシアにおける宗教・社会主義・世俗化」は第一節「神なき後の社会主義か――宗教と世俗をめぐる概念について」と第二節「後期社会主義時代のソヴィエト的公衆と宗教文化財への関心」から構成されている。社会主義時代に宗教文化に代わってその代替物となったのが、社会主義というイデオロギーであり、スターリン批判以降は、社会主義的言説を遂行的次元においてのみ内面化したソヴィエト的公衆が形成され、愛国心と結びついた審美的な関心が宗教文化財の保護・復興運動に繋がっていく、としている。民俗学を専攻する評者は、この時代の農村におけるむしろ呪術的な関心と結びついた正教信仰が著者の言うソヴィエト的公衆の内面とどう関わっていたかに関心があり、ソヴィエト時代の宗教的心性の全体像は、この方面の民俗学的研究と相補的な関係にある、と言えよう。例えば民間の呪術師の多くは同時に正教信者であり、イコンを美術品としてよりも呪具として捉えている傾向があることは、最近の民間呪術についての文化人類学的研究(藤原 2010)が明らかにしているところである。

 第三章「宗教をめぐる学知の確立」は第一節「第二次世界大戦以前のロシアにおける宗教研究の展開」、第二節「科学的無神論によるソ連宗教研究の完成」、第三節「科学的無神論とは何だったのか――科学的無神論と無神論博物館の活動から」から構成されている。ここでは、ソヴィエト時代の枠の中で宗教を「科学的に」論じる理論的枠組みとして「科学的無神論」がどのように構築され、無神論博物館において実践されたかが論じられる。ここで興味深いのは、ソ連における科学的無神論が民族学・民俗学の領域において形成され、決して哲学の領域においてではなかったことである。それは呪術的な民間信仰やシャーマニズムをも含んだ宗教現象一般を克服するツールであったのだ。

 第四章「史跡・文化財保護運動の展開」は、第一節「教会建築が文化遺産となるまで」、第二節「大祖国戦争からフルシチョフ体制までの文化遺産保護運動の展開」、第三節「ブレジネフ時代の史跡・文化財保護運動」から構成され、宗教文化財としての教会建築とその自然環境の保護の運動の展開が歴史を追って綿密にあとづけられる。教えられることの多かった章ではあるが、ここまで読み進めて書評者が不満を感じたのは、ソヴィエトにおける宗教と宗教政策のあり方一般を論じてきた本書が、宗教文化財を視覚文化であるイコン、教会建築、史跡、その自然環境などに限定していることである。宗教文化は目に見える建築や美術においてのみ発現している訳ではないからである。ソヴィエト時代における宗教文化財の再評価と復興はジャンルによってその様相も歴史的歩みも異なる、と考えられるが、その全体を概観であってもするべきではなかったか。

 たとえ廃墟になったとしても人々の目から隠すことのできない教会建築は、それ自体としては直接的なキリスト教イデオロギーの発信源ではないこともあり、復興の動きが生まれたのは当然とも言えるが、建築やイコンとは異なりキリスト教の理念をその歌詞によって直接表現しうるロシア聖歌は人々の耳から簡単に隠すことができた。ロシア正教聖歌がコンサート会場で演奏できるようになったのは、1988年のルーシ受洗千年祭の後である*1。その例外は本書で検討されているツーリズムとしての教会見学におけるイヴェントとしての演奏である。

 またナロードの創造物としてソヴィエトで称揚されていたフォークロアも巡礼霊歌
(духовные стихи)のような宗教的ジャンルについては、テキストの出版も、コンサートでの演奏もこの頃までできなかった。実際には英雄叙事詩ブィリーナの伝承者の多くは巡礼霊歌の歌い手でもあったのにもかかわらずである。モスクワ大学文学部のフォークロア学科でこの巡礼霊歌についての授業が半世紀ぶりに復活したのは1989年のことで、その担当教授はそれまで専らブィリーナの研究者として知られていたセリワーノフであった。このことを当時そこに在籍していた評者はよく記憶している*2

 第五章「科学的無神論の展開と『信者』の相貌――ウラジーミル州でのフィールドワークを中心に」は、第一節「ソヴィエト・ロシア初のツーリズム・センター、スーズダリ」、第二節「ウラジーミル・スーズダリ博物館と無神論プロパガンダ」、第三節「信者共同体と博物館によるウスペンスキー聖堂の共同利用」、第四節「『聖地』創造――農村部における信仰と無神論政策」から構成されている。この章の特徴の一つは入念なフィールドワークによる事実の裏付けがされていることである。評者がロシアの農村に初めて民俗調査に入ったのは、ペレストロイカの末期1990年のことであり、それまでは農村部での外国人によるフィールドワークは不可能であった。この地域の無神論プロパガンダと教会とイコンの審美的再評価がどのように折り合いをつけていったかが、具体的な現場での「信者」のあり方に即して述べられる。民俗学の立場から評者が最も興味を惹かれたのは、第四節の(二)における聖痴愚(ユロージヴィ)の来歴による土地の「聖地化」である。ここには殆ど呪術信仰と一体化した聖者信仰が見られるからである。1988年のルーシ受洗千年祭に際して多くの新たな列聖が行われたが、列聖された人物の中にはマトローナのような民間の聖痴愚が少なからず見出された(渡辺 2013)。

 第六章「ふたりのアンドレイ――ルブリョフとタルコフスキー」は、第一節「ルブリョフ美術館の開館と一般公開――1947年のモスクワ建都800周年と1960年のルブリョフ生誕600周年」、第二節「『六〇年代人』にとってのルブリョフ、『六〇年代人』としてのタルコフスキー」、第三節「映画『アンドレイ・ルブリョフ』におけるロシアとナロードのイメージ――正義の使者でも殉教者でもなく」、第四節「再び、ルブリョフへ」から構成され、ルブリョフ美術館の開館と連動したルブリョフ再評価、それを機縁としたアンドレイ・タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』の製作の経緯とその反響について検討される。それはそれ自体貴重なドキュメントとして興味深く読んだが、目を絵画・建築以外の宗教芸術ジャンルに向けると、1960年代にはルブリョフ再評価と符合する出来事が散見される。

 例えばこの映画の公開の1967年に2年先立つ1965年にアレクサンドル・スヴェシニコフ(1890-1980)指揮国立アカデミー合唱団によりラフマニノフ「徹夜禱」の録音が行われている。従来もっぱらロシア民謡の演奏団体として活動してきたこの合唱団が敢えてこの録音に踏み切れたのは、指揮者スヴェシニコフが当時モスクワ音楽院院長だった、という状況も大きな要因と思われるが、ここにはロシア民謡に遜色ない偉大な民族的文化遺産であるラフマニノフのこの作品を復権させようとする、ルブリョフ復権の意義付けと同じ動機を見出すことができよう*3。実はスヴェシニコフは1920年代前半まで教会聖歌隊指揮者として活動していた。

 もう一つ同時代的な符合を指摘しておこう。リムスキー=コルサコフのオペラ『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』の運命である。このオペラの台本は、キーテジという町がバトゥ来襲時に神の奇跡によって湖の底へ沈んだという旧教徒の伝説と、17世紀に成立した中世ロシア文学『ムーロムのピョートルとフェヴローニャの物語』を素材に作られた。フェヴローニャが教会で列聖された聖女であったこともあり、1907年に初演されたこのオペラは革命後宗教的神秘劇として受け取られ、1933年のボリショイ劇場での上演を最後にその後30年以上上演されず、改めて民衆的ドラマとして再解釈されて1966年に再演されたのである(杉野 1998)。

 第七章「記憶への旅――社会主義の経験と景観表象の変容」は第一節「『ロシアの北』という心象地理と場の聖性」、第二節「『驚嘆すべきナロードの芸術』――キジー島における木造建築と民族文化の博物館」、第三節「『神秘の地、ゲニウス・ロキ』――ソロフキの美と隠された痛み」、第四節「語られぬ過去と懐古する語り――ヴァラーム博物館」から構成され、ロシア北部に残された宗教建築の再発見と再評価、そしてその復興の過程について述べられる。

 最後に「おわりに――『聖なる景観』……あいまいな愛国主義の聖性」で締めくくられるが、ここでやはり本書全体の論述を通して得られた著者なりのはっきりとした結論が欲しかった。

 全体を通じて綿密なフィールドワークとアルヒーフ資料の渉猟によっていること、それによって従来不分明だった、後期ソヴィエト時代における宗教的文化遺産の像が微妙に変容していく過程が鮮やかに浮き彫りにされていることによって、本書は日本に前例のない画期的な著作として評価されるであろう。

 ただし本書を通読して幾つかの問題点が残されていることを感じたので、それを指摘しておく。まず本書の通読後に感じた最大の不満と違和感は、「聖性」、「聖なる」という術語が著者によってどのような立ち位置からなされているのかが通読してもよく分からない点である。まず本書の標題に用いられている「聖なる景観」という言葉の定義は、「はじめに」でなされているが、そこでは「聖なる」という形容については定義がない。そこでの定義を受けて「聖なる景観」という術語は、標題でも本文でも括弧なしで使われているが、本文では「聖地」という術語は括弧つきで用いられ、「聖性」は括弧なしで用いられている。括弧つきと括弧なしの表記上の違いは「他者の言葉」の認識の本質的な違いを示している。括弧なしの表記は、それが「私の言葉となった」普通名詞であることを示すが、括弧つきの表記は発話者がその言葉の実質を疑う留保的な距離を含意する。であるならば「聖なる」という言葉が括弧なしの字義通りの意味を持つのは信仰者にとってのみであろう。本書が論じているのが、後期社会主義時代のソヴィエトにとっての括弧つきの「聖性」であり、それがそこでどのように読み替えられていったか、が本論の主題であるならば、この術語の表記法そのものに著者の方法論的立場が示される筈であるが、それは本書ではなされていない。本書では第七章第一節で「聖地」の定義について三つの方法論を紹介しているが、著者がどの方法論をとっているのかも明らかではない。信仰の外部に立つと思われる著者は自らの立ち位置を明らかにし、それに基づいた論述と分析結果をしめすべきであった。この点の不徹底さが、「おわりに」における「具体的に何が『聖なる景観』か、本書の中でその明確な答えを出すことはしなかった」といういささか拍子抜けの結論を導いているのではないか。読者は著者なりの「答え」を期待している筈である。

 もう一つ付け加えるならば、「愛国主義」と結びついてロシアの「聖性」の概念が浮上する現象は、中世以来、クリコヴォの戦い、1812年の対ナポレオンの祖国戦争の表象にも反復され、大祖国戦争後の愛国主義とロシアの「聖性」の結びつきは、いわばその復活である。独ソ戦の際に歌われたレーベデフ=クマーチ作詞、アレクサンドロフ作曲の軍歌はまさに『聖なる戦い』(Священная война)という題名であった。チャイコフスキーの『祝典序曲1812年』(1880)で、フランスを象徴する音楽的モチーフがラ・マルセイエーズであるのに対し、ロシアを象徴するそれがロシア聖歌『神よ、汝の民を救い給え』であったのと並行的な現象といえよう。

 もう一つの不満は、既に述べたように、宗教文化財には教会建築や美術といった視覚表象のみならず、宗教音楽のような聴覚表象も含まれること、その全体を見なければ、後期社会主義時代における宗教文化遺産復権の全体像は見えてこない、ということが本書の視野に入っていないことである。

 最後の不満は索引(特に人名)が簡明に過ぎ、この大部の労作を生産的に利用しようとする人には不親切であることである。ちなみに本文にその名が散見されるリハチョーフは歴史家というよりは、中世ロシア文学研究家であろう。

■註

*1 宗教に関わる「音楽」としてソヴィエト時代に唯一解禁されていたのは、教会の鐘の音楽であった。これは本書で詳述されている教会ツーリズムとも結びついて1960年代からLPが発売されていたが、これは鐘の音楽が言語的テキストを持たないことにもよっていた。ソヴィエト時代には教会の鐘の多くは兵器用の金属として供出させられたが、朝晩に響く鐘の音は革命前のロシアの典型的なサウンドスケープであり、ラフマニノフのような作曲家に大きな芸術的霊感を与えていたことは有名である。


*2 巡礼霊歌のみならず、ネクラーソフ原詩の「十二人の盗賊」のようなシャリャーピンも歌い、人口に膾炙していた民謡も、盗賊の頭であるクデヤールが、改心して修道院に入る、という宗教的内容のゆえに、1970年代まで発禁の曲であった。
 

*3 基本的にソヴィエト時代の作曲家は宗教音楽を作曲することはできても、それを発表する場はなかった。例外は中世ロシアを舞台とした劇映画であり、プロコフィエフはエイゼンシュテインの映画『イワン雷帝』(1944-45)のために映画音楽として「ロシア聖歌」を作曲している。ちなみにその映画の聖歌演奏の場面で輔祭役を演じたボリショイ劇場のバス歌手マクシム・ミハイロフは、革命前から正教会で歌い、革命後もオムスク、カザン、モスクワの正教会で1930年まで輔祭を務めていた。

■文献

杉野由紀(1998)「リムスキー=コルサコフのオペラ『見えざる町キーテジと乙女フェヴロニアの物語』をめぐって」『ロシア民話研究』第6号、ロシア民話研究会、13-24頁。


藤原潤子(2010)『呪われたナターシャ――現代ロシアにおける呪術の民族誌』人文書院。
 

渡辺節子(2013)「墓地に住む巷の神々――ポクロフスキー修道院・マトローナ」(上)『なろうど』66号、ロシア・フォークロアの会、26-34頁。

文献

■評者紹介
①氏名(ふりがな)……伊東一郎(いとう いちろう)
②所属・職名……早稲田大学文学学術院教授
③生年と出身地……1949年、北海道生まれ
④専門分野・地域……スラヴ比較民族学、ロシア文学、ロシア音楽文化史。対象地域は旧ソ連圏、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、旧ユーゴスラヴィア圏、ブルガリア。
⑤学歴……早稲田大学第一文学部ロシア文学専修1972年卒業、早稲田大学大学院文学研究科ロシア文学専攻修士課程1974年修了、同上1977年退学。
⑥職歴……1979年国立民族学博物館助手、1984年早稲田大学文学部専任講師、1987年同助教授、1992年同教授。
⑦現地滞在経験……1982年民博助手としてブルガリア南部ロドピ地方ノヴァコヴォ村に民俗学調査のため3ヶ月滞在、ソフィアに文献収集のため3ヶ月滞在。1989-90年モスクワに10ヶ月留学。1997-98年モスクワに10ヶ月留学。2016年ザグレブに3ヶ月留学。
⑧研究手法……インタビュー、参与観察によるフィールド調査を行う。
⑨学会……日本ロシア文学会、日本人類学会、民族芸術学会。
⑩研究上の画期……❶1968年のチェコ事件。ロシア中心のロシア研究に限界を感じ、スラヴ学的視野からロシアを相対化しようと考えるようになった。❷1991年のソ連崩壊。ソヴィエト時代の学問によって培われた自分自身の研究の枠組みを全て見直すことを迫られた。ロシアでのフィールドワークの可能性がひらかれた。
⑪推薦図書……森安達也編(1986)『スラヴ民族と東欧ロシア』民族の世界史10、山川出版社。

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